さんろく
山麓

冒頭文

あの頃私は疲れてゐた。遠い山麓の信夫の家で疲れた古い手を眺めてゐた、あの頃。 山麓の一人の女、信夫の奥さんと顔をあはせる。さうすると、ひつそりした山麓の空気が私の鼻先の部分だけ小さくびる〳〵と震え、そこに出来た小つちやな真空の中へ冷めたい花粉が溢れてきて、空気の隙間をとほり、私の耳の周りをもや〳〵して、こまつちやくれた秋風となつて、私の額へ癇癪と考へ深い皺を刻み消え失せていつてしまふ。私

文字遣い

新字旧仮名

初出

「東洋大学新聞 第一〇一号」東洋大学新聞学会、1933(昭和8)年4月30日

底本

  • 坂口安吾全集 01
  • 筑摩書房
  • 1999(平成11)年5月20日