しょさいをすてて
書斎を棄てゝ

冒頭文

一 もうわたしは、余程久しい以前から定(きま)つた自分の部屋といふものを忘れて、まるで吟遊詩人のやうな日をおくつてゐることだ。ところがわたしは、かねがね憧れの夢のなかでは寝ても醒めても、そこはかとない放浪のおもひが逞しいにもかゝはらず、身をもつてそれからそれへ酔歩を移してゆくといふことには何うやら未だ雅量にも堪へられず、所詮は書斎裡のみの夢想家に過ぎないといふ感が今更ながら深いのである。

文字遣い

新字旧仮名

初出

「中外商業新報 第一七七〇九号、第一七七一一号、第一七七一二号」1935(昭和10)年5月12日、14日、15日

底本

  • 牧野信一全集第六巻
  • 筑摩書房
  • 2003(平成15)年5月10日