じろきちこうし
治郎吉格子

冒頭文

立つ秋 湯槽(ゆぶね)のなかに眼を閉じていても、世間のうごきはおよそわかる——。ふた月も病人を装って辛抱していたこの有馬の湯治場(とうじば)から、世間の陽あたりへ歩き出せば、すぐにあしのつくというくらいな寸法は、なにも、気がつかずに立った治郎吉(じろきち)ではなかった。 素袷(すあわせ)の肌ごこちや、女あそびを思わせる初秋の風は、やたらに、治郎吉を退屈の殻から唆(そそ)った。

文字遣い

新字新仮名

初出

「週刊朝日 秋季特別号」1931(昭和6)年10月1日

底本

  • 治郎吉格子 名作短編集(一)
  • 吉川英治歴史時代文庫、講談社
  • 1990(平成2)年9月11日