のづちのひゃく
野槌の百

冒頭文

一 チチ、チチ、と沢千禽(さわちどり)の声に、春はまだ、峠(とうげ)はまだ、寒かった。木の芽頃の疎林(そりん)にすいて見える山々の襞(ひだ)には、あざやかに雪の斑(ふ)が白い。 「あなた。——あなた」 お稲は、力なく、前に行く人をよんだ。 かの女の十間ほど前を、三五兵衛は黙々と、あるいて行くのだった。 振り向いて、棘(とげ)のある眼が、 「なんだ?」

文字遣い

新字新仮名

初出

「週刊朝日 夏季特別号」1932(昭和7)年6月1日

底本

  • 治郎吉格子 名作短編集(一)
  • 吉川英治歴史時代文庫、講談社
  • 1990(平成2)年9月11日