文登(ぶんとう)の周生(しゅうせい)は成(せい)生と少い時から学問を共にしたので、ちょうど後漢の公沙穆(こうさぼく)と呉祐(ごゆう)とが米を搗(つ)く所で知己(ちき)になって、後世から杵臼(ききゅう)の交(こう)といわれたような親しい仲であったが、成は貧乏であったから、しょっちゅう周のせわになっていた。そのうえ歯(とし)も周がうえであったから、成は周の細君を嫂(ねえ)さんと呼んで尊敬し、季節季節に