はる

冒頭文

春といふと、曾て紀州にあそんだ時のことが思ひ出されて来た。あそこは潮流の関係で、春の来ることが早く、伊勢あたりはまだやつと梅の花が散つた頃なのに、そこでは山桜が咲きみだれ、夏蜜柑が黄熟し、菜の花が黄く、蛙の声が到るところに湧くやうきこえた。 それに、そこは水蒸気が多く、樹々の緑の色にも、他に見ることの出来ない艶があつて、いかにも春が濃であるといふやうな気がした。私は降りしきる雨を衝いて、時には

文字遣い

新字旧仮名

初出

「婦人之友 第十七巻第四号」1923(大正12)年4月1日

底本

  • 定本 花袋全集 第二十七巻
  • 臨川書店
  • 1995(平成7)年7月10日