一 ぼくは鏑木さんに面と向ふと「先生」と呼ぶ。かげで人との噂や取沙汰に呼ぶ時は、「鏑木さん」または「矢来町」である。かういふ相手方のひとのいつとなく互ひの中で出来る呼び名は、その音や言葉にいひ知れぬ実感のこもつた面白いものであるが、鏑木さんはぼくを「木村サン」といつて下さる。またぼくには鏑木さんを目の前では鏑木さんとは決して呼べないのである。 それは一々どういふわけでといふ、わけは一向感じない