まなつのあさのひととき
真夏の朝のひとゝき

冒頭文

芝区で、二本榎の谷間に部屋を借りてゐた。既に七月の夢が消えてゐた。寺院の鐘の音が霧の深い崖下に渦を巻いた。妻子は私の因循にあきれて、海辺の故郷に赴いてゐた。 私は寺院の鐘の音では夢を破られなかつたが、直ぐの窓下で芝居の幕あきの調子で鳴る紙芝居師の拍子木の響で、毎朝目を醒されると、別に自分を役者にも観客にもなぞらへるわけでもないのであつたが、やはり何かしら遊戯的気分に誘はれるのであつた。そ

文字遣い

新字旧仮名

初出

「新潮 第三十巻第九号」新潮社、1933(昭和8)年8月19日

底本

  • 牧野信一全集第五巻
  • 筑摩書房
  • 2002(平成14)年7月20日