おぼるるもの
溺るるもの

冒頭文

一 或る図書館員の話 掘割の橋のたもとで、いつも自動車を乗り捨てた。 眼の届く限り真直な疏水堀で、両岸に道が通じ、所々に橋があって、黒ずんだ木の欄干が水の上に重り合って見える。右側は大きな陰欝な工場、左側は小さな粗末な軒並……。その軒並の彼方、ぼうっとして明るみの底、入り組んだ小路の奥に、燐光を放ってる一点があった——彼女がいた。 燐光……そんな風に私は彼女を感じた。

文字遣い

新字新仮名

初出

「中央公論」1928(昭和3)年4月

底本

  • 豊島与志雄著作集 第三巻(小説Ⅲ)
  • 未来社
  • 1966(昭和41)年8月10日