血盟團、五・一五事件の公判の初められようとする頃、筑波天狗黨の遺族は山上に集まつて七十年祭を擧行した。警察がやかましかつたので、來會者は四十人に過ぎず、天狗塚はいくつあるだらうといふ話が出た。 當時囚へられた天狗は、例外なしに各部落の馬捨場で首を刎ねられてゐる。正五位飯田軍造、天狗軍中強豪を以て聞えた木戸の軍造も、下妻(しもづま)の町外れで死骸を張付にかけられ、馬骨とおなじ穴に埋められてゐる。