昭和×年の十月三日午後六時半。 玄海洋(げんかいなだ)の颱風雲(たいふうぐも)を帯びた曇天がもうトップリと暮れていた。 下関の桟橋へ着いた七千噸(トン)級の関釜(かんぷ)連絡船、楽浪丸(らくろうまる)の一等船室から一人の見窄(みすぼ)らしい西洋人がヒョロヒョロと出て来た。背丈が日本人よりも低い貧弱な老人で、何の病気かわからないが骨と皮ばかりに瘠せ衰えている。綺麗に剃り上げた頬の